オフィス「和み」

ネットで「小学校教育」を支援・助言します。

助言者紹介
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オーナー紹介

昭和28年3月27日生     山下 修一

金沢市立長田町小学校・金沢市立長田中学校・愛知東邦高校卒業

昭和50年3月。早稲田大学 教育学部 卒業

・中1高1保健体育取得
・昭和60年4月。小学校2普通免許取得「仏教大学」

21.令和6年度 4月。
 11年間務めました石川県いじめ対応アドバイザーを引退しました。すでに、現場を離れて10年以上になりましたので、辞退させていただきました。ですが、石川県教育振興会事務局長は10年目になります。さらに、金沢プール館長も続けています。

20.令和5年度 4月。
 
石川県いじめ対応アドバイザーの11年目になります。今年度も白山市立内「松南小・松陽小」の2校を担当するになります。また、石川県教育振興会事務局を預かって9年目になります。さらに、金沢プール「館長」にも就任致しました。
 

19.令和4年度 4月。
 
石川県いじめ対応アドバイザーの10年目になります。今年度も白山市立内「松南小・松陽小」の2校を担当するになります。また、石川県教育振興会事務局を預かって8年目になります。さらに、金沢プール「アドバイザー的・館長」にも就任致しました。

18.令和3年度 4月。
 
石川県いじめ対応アドバイザーの9年目になります。今年度も白山市立内「松南小・松陽小」の2校を担当するになりました。また、石川県教育振興会事務局を預かって7年目になります。


17.令和2年度 4月。
 
石川県いじめ対応アドバイザーの8年目になります。今年度も白山市立内「松南小・松陽小」の2校を担当するになりました。また、石川県教育振興会事務局を預かって6年目になります。

16.平成31年度(令和元年度) 4月。
 
石川県いじめ対応アドバイザーの7年目になります。今年度は、白山市立内「松南小・松陽小」の2校を担当するになりました。また、石川県教育振興会事務局を預かって5年目になります。


15.平成30年度 4月。
 
石川県いじめ対応アドバイザーの6年目になります。今年度は、白山市立内「松南小・松陽小・石川小・明光小」の4校を担当するになりました。また、石川県教育振興会事務局を預かって4年目になります。

14.平成29年度 4月。
 
石川県いじめ対応アドバイザーの5年目になります。今年度は、白山市立内「松南小・松陽小・石川小・明光小」の4校を担当するになりました。また、石川県教育振興会事務局を預かって3年目になります。

13.平成28年度 4月。
 
石川県いじめ対応アドバイザーの4年目になります。昨年度に引き続き白山市立内「松南小・松陽小・石川小」の3校と、河北郡「大根布小・鶴ヶ丘小」の合計5校を担当するになりました。また、石川県教育振興会事務局を預かって2年目になります。

12.平成27年度 4月。
 
石川県いじめ対応アドバイザーの3年目になります。昨年度に引き続き白山市立内「松南小・松陽小」の2校と、河北郡「大根布小・西荒屋小・鶴ヶ丘小」の合計5校を担当するになりました。また、石川県教育振興会事務局を預かることになりました。新採気分です。


11.平成26年度 4月。
 
石川県いじめ対応アドバイザーの2年目になります。昨年度に引き続き白山市立内「松南小・石川小・松陽小」の3校と、河北郡「大根布小・西荒屋小」の合計5校を担当するになりました。

10.平成25年度。
 石川県いじめ対応アドバイザーの委嘱を受けました。白山市内「松南小・松陽小・石川小・朝日小・広陽小・明光小」の6校を担当することになりました。また、金沢市教育センター人材バンクに登録し、国語授業を中心に担当しています。
 7月。石川県公立小学校非常勤講師「小中いきいきサポート」の辞令を受け、金沢市立米泉小学校で「週約12時間」、子ども達のサポーターをしています。

教職歴
 
9.昭和50年4月。
 金沢市立戸板小学校でした。5年→6年→5年と担任をしました。当時は業間体育の全盛期であり、「俺たちの旅」と称して長休みに運動場を走りました。中学校体育をしたくて異動希望を出しました。

8.昭和53年4月。

 体育の先生になりました。金沢市立大徳小学校でした。38学級あったように記憶しています。旧校舎と新校舎があり、翌年木曳野小学校の誕生と同時に、旧校舎を解体する様子を目の当たりにしました。体育専科で1年間体育ばかりでした。体育専科→6年→6年→5年→6年→5年→6年→3年→2年と9年間在職しました。大徳では国語と出会いました。体育は子どもが喜んで来る。国語授業でも喜ぶ子ども達を見たくて、小学校教育の免許も取得しました。

7.昭和62年4月。

 長町・芳斉・材木・長土塀の4小学校を統合した金沢市立中央小学校に赴任しました。6年→4年→5年→6年→4年→5年→6年→5年→6年の担任として初年度から9年間勉強させて頂きました。「小学校でどうして生徒指導を研究するの?」と疑問に感じながら、高洲南小学校へ県外派遣研修で出かけました。目から鱗!小学校教育の最終の姿を子ども達一人一人から感じました。

6.平成8年4月。

 金沢市立米泉小学校へ赴任しました。5年→6年→4年→5年の4年間お世話になりました。開校以来、国語を大切にしてきた学校で、四季ごとに俳句を作成し、毎年俳句集を作成するほど力を入れていました。その伝統が認められ、文部大臣表彰・博報賞をダブルで受賞でしました。校舎前庭に「校歌を掘ったノート」のオブジェは受賞の証です。

5.平成12年4月。

 金沢市立富樫小学校に赴任しました。初めての教頭職でした。トイレのないプールだったので、金沢市水泳協会副理事長として市役所と掛け合い運動場にトイレを建設してもらいました。3年間の間に、「金沢市の2学期制モデル校」になりました。

4.平成15年4月
 金沢市立緑小学校に赴任しました。チーム緑を意識し、全教職員で取り組んだ4年間の教頭生活でした。学校に自転車を4台購入し、いろいろな準備に備えました。全学級で国語の授業をしました。

3.平成19年4月。
 校長として白山市立松陽小学校に赴任しました。初めての校長職。初めての白山市。初めてづくしで困惑しました。授業力の向上・地域との連携など、具体的な目標を掲げ、学校運営にあたりました。白山市学力向上パイオニア・プランは全員国語で公開発表(県国研大会も含め)を行いました。4年間で不登校ゼロを達成しました。

2.平成23年4月。

 白山市立松南小学校に最後の異動をしました。剣崎校舎から菅波校舎へ移転する時期でもあり、慌ただしい日々を過ごしました。素晴らしい校舎に入る子ども達と教職員で「虹のゼロ運動」に取り組みました。2年間で「残食・ズッパ」の2回のゼロを達成しました。平成25年1月8日の3学期から菅波校舎での学校生活を過ごしました。山島・林中地区の皆様方のご協力のお陰で、すばらしい学校が誕生しました。
 素直な子ども達、素敵な導きをする教師達、力強い地域の人達と出会い、子ども達を中心とした学校運営を構築することができました。感謝しています。


1.水泳と私

水泳のきっかけ
 金沢市立長田中学校で、水泳を指導できる先生と出会いました。

・M T先生
・T K先生(お亡くなりになりました)

 小学校の時からプールで泳ぐことは好きでしたが、中学ではブラスバンドに入部を決めトランペットの練習を始めていました。水泳部に転部した理由は、石川県のトップスイマーになっていた姉の影響があります。もう一つは、「応援する人」ではなく、「応援される人」になれと激をとばしてくれた父の言葉です。
日本中学校新記録樹立
 1967年度、全国中学校水泳大会で「1500m自由形2位」でしたが、日本中学校新記録を樹立しました。写真が証明しています。残念なことは記録が記入していないことです。新記録章が先に送られて、「記録を記したプレートは後日」となっていたのですが、未だに後日になっています。400m自由形も2位でした。
 
 なぜ、こんな成績を残せたのか? 

 それは、当時世界新記録を連発していた「コンラッズ選手の練習メニュー」を中学3年生だった私の練習メニューに、篤田先生が採用したからでした。泳げば強くなる。運動選手は練習中に水を飲んではいけない。風邪は根性で治せ。と言う時代でした。
 夏休みの合宿練習の最高距離は、「400m40本+50m20本」のインターバル練習でした。25mプールを往復するので、ターンをするときの手(指)から血がにじみました。水がしみるので包帯を巻いて泳ぎましたが、効果はなかったです。
インターハイ「優勝」
 水泳留学というのでしょうか。愛知東邦高校へ進学しました。当時水泳部(邦泳会)の監督でした「Y S生」の職員アパートに下宿し3年間を過ごしました。

 スランプの時期があり、自由形では1500mでインターハイ6位が最高でした。その年の国体前に「自由形(長距離)から個人メドレー(バタフライ→バック→ブレスト→クロールを一人で泳ぐ)」に転向しました。そして、昭和45年和歌山インターハイで「200m個人メドレー優勝」しました。400m個人メドレーは2位でしたが、その年の日本ランキングで「5位」でした。

 高校2年生の冬、私は「このオフシーズンが勝負だ」と考えました。より強い自分になるために、自己練習を計画しました。早朝のランニング・夜の筋力トレーニング(ゴムチューブ引き)です。今らなトレーニングマシーンがありますが、私は自分でトレーニング台とゴムチューブを作成しました。努力の成果が現れてよかったです。
インカレ「シード校確保」
 オリンピック出場をめざし、早稲田大学教育学部へ進学しました。水泳部(稲泳会)は、全寮制でした。大学2年のインカレ予選は絶好調でした。しかし、代々木オリンピックプールの露天で食べた物で、「急性胃腸カタル」を発症し、オリンピックの夢は潰えました。
 当時、早稲田大学水泳部は部員不足から「シード校落ち」の危機でした。4年生の夏、私は主務をしながら、インカレ「200m・400m個人メドレー」の2種目で2位を確保しました。10点ゲットできたことで「シード校を死守できた」と自負していました。

 3年生からは、「中学校の体育教師になって水泳指導をすること」が夢になりました。指導者としては「水泳を知り尽くさなければならない」と考え、J.E.カウンシルマン体育博士(インディアナ州ブルーミントン・インディアナ大学)の「The Ssiene of Swimming」を参考に、「合理的な泳法」をテーマとした論文を作成しました。
 当時、水泳と言えば「アメリカ」が最強でした。そして、水泳を科学学として世に広めた第一人者が「カウンシルマン博士」てした。


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