教職歴
9.昭和50年4月。
金沢市立戸板小学校でした。5年→6年→5年と担任をしました。当時は業間体育の全盛期であり、「俺たちの旅」と称して長休みに運動場を走りました。中学校体育をしたくて異動希望を出しました。
8.昭和53年4月。
体育の先生になりました。金沢市立大徳小学校でした。38学級あったように記憶しています。旧校舎と新校舎があり、翌年木曳野小学校の誕生と同時に、旧校舎を解体する様子を目の当たりにしました。体育専科で1年間体育ばかりでした。体育専科→6年→6年→5年→6年→5年→6年→3年→2年と9年間在職しました。大徳では国語と出会いました。体育は子どもが喜んで来る。国語授業でも喜ぶ子ども達を見たくて、小学校教育の免許も取得しました。
7.昭和62年4月。
長町・芳斉・材木・長土塀の4小学校を統合した金沢市立中央小学校に赴任しました。6年→4年→5年→6年→4年→5年→6年→5年→6年の担任として初年度から9年間勉強させて頂きました。「小学校でどうして生徒指導を研究するの?」と疑問に感じながら、高洲南小学校へ県外派遣研修で出かけました。目から鱗!小学校教育の最終の姿を子ども達一人一人から感じました。
6.平成8年4月。
金沢市立米泉小学校へ赴任しました。5年→6年→4年→5年の4年間お世話になりました。開校以来、国語を大切にしてきた学校で、四季ごとに俳句を作成し、毎年俳句集を作成するほど力を入れていました。その伝統が認められ、文部大臣表彰・博報賞をダブルで受賞でしました。校舎前庭に「校歌を掘ったノート」のオブジェは受賞の証です。
5.平成12年4月。
金沢市立富樫小学校に赴任しました。初めての教頭職でした。トイレのないプールだったので、金沢市水泳協会副理事長として市役所と掛け合い運動場にトイレを建設してもらいました。3年間の間に、「金沢市の2学期制モデル校」になりました。
4.平成15年4月。
金沢市立緑小学校に赴任しました。チーム緑を意識し、全教職員で取り組んだ4年間の教頭生活でした。学校に自転車を4台購入し、いろいろな準備に備えました。全学級で国語の授業をしました。
3.平成19年4月。
校長として白山市立松陽小学校に赴任しました。初めての校長職。初めての白山市。初めてづくしで困惑しました。授業力の向上・地域との連携など、具体的な目標を掲げ、学校運営にあたりました。白山市学力向上パイオニア・プランは全員国語で公開発表(県国研大会も含め)を行いました。4年間で不登校ゼロを達成しました。
2.平成23年4月。
白山市立松南小学校に最後の異動をしました。剣崎校舎から菅波校舎へ移転する時期でもあり、慌ただしい日々を過ごしました。素晴らしい校舎に入る子ども達と教職員で「虹のゼロ運動」に取り組みました。2年間で「残食・ズッパ」の2回のゼロを達成しました。平成25年1月8日の3学期から菅波校舎での学校生活を過ごしました。山島・林中地区の皆様方のご協力のお陰で、すばらしい学校が誕生しました。
素直な子ども達、素敵な導きをする教師達、力強い地域の人達と出会い、子ども達を中心とした学校運営を構築することができました。感謝しています。
1.水泳と私