このページでは「生徒指導の機能が生きる学習」について、次の3点をどのようにとらえ、授業の中で生かしていくかを考えてみましょう。
(1)自己決定の場を用意する
(2)一人一人に存在感を与える(自己有用感・自尊感情)
(3)共感的関係で学習を展開する
- (1)自己決定の場を用意する
- 自己決定とは「自分で考え・自分で決めて・自分で実行する」ことです。では、授業中のいつ・どこを自己決定の場とすればよいのでしょう。授業場面としては、
①学習の準備をする
②あいさつ「はじめます・おわります」をする
③本時の課題を考える
④自分の考えを持つ
⑤考えを出し合う・話し合う。
⑥考えを深める。確かなものにする
⑦まとめる
⑧次時の課題を持つ。
その他、話す・聴く・見る・比較する・など…
これらの全ての場を自己決定の場にしたいのですが、45分間の時間制限がありますし、毎時間学習のねらいに到達しなければならないので不可能です。
そこで、学級の子ども達全員が自己決定の場になる活動は、本時の課題について「自分で考え、自分で決めて、自分のノートに書く」場が一番可能だと考えます。
自分の考えを持つ場が、自己決定の場になるためには、いろいろな配慮(手立て・工夫・仕掛け等)が必要です。
ア) 考えを持てる課題の設定
4年「読んで、自分の考えをまとめよう」の教材文「おおきな力を出す」の課題として、
A<筆者の考えは、何か?>
B<筆者の考えは、何段落に書いてあるか?>
A・Bのどちらが、学級の子ども達にとって自己決定の場となるでしょう。数人だけが考えて、ノートに書く学習では、機能は生きているとは言えませんからね。
イ)考えを持てる時間の確保
考える時間の確保は、課題の難度に関係します。現実としては、子ども達全員が毎時間、「自分の考え(主張)と理由(根拠)を持つ」ことは不可能です。学習していないことを学習すると同時に、能力には個人差があるからです。
ですが、上記の課題Bの考えは「主張(段落)」だけでもいいのですから、一人一人に自己決定を求める場としてふさわしいと考えます。子どもが直感で段落を見つけらたとしても、理由まで考えられなかったり書けなかったりするからこそ、全体の話し合いの場で明確にさせればよいのです。
では、具体的にどのくらいの時間を確保すれば良いのでしょうか。何分間がいいのでしょうか。。1時限「45分間」で計算してみてください。
①「 分間」で、挨拶→課題→板書
②「 分間」で、課題について自己決定
・課題に対しての自分の考えを持って書く。
③「 分間」で、話し合う。
・子ども達の考えを出し合い、教師が交通整理役となって、出され
た考えの類似点や相違点を明確にして、課題を解決する。思考力・活用力が一番育つ過程です。大切にしたいですね。
・ねらいに到達させるためには、子ども達が出した考えに、読めていない部分や気づいていない部分があれば、問い返し(補助発問)より深くしたりより明確にしたりする必要があります。
④「 分間」で、まとめ→挨拶
・課題についての最終的な考えやまとめをノートに書く。
最初と最後を「5+5=10分間」とし、自己決定の場を「10分間」とすれば、話し合いが「25分間」となります。自己決定の10分間は可能ですが、最初と最後の10分間は難しいです。また、25分間の話し合いで上記「③の活動」が確保できるかが問題です。
自分の考えを持つ自己決定は、なるべく、3~5分間がいいと思います。ウルトラマンが地球上で活動できる時間でもあり、カップヌードルが完成する時間でもあります。あまりにも時間がかかるようなら、前時に課題を設定し家庭学習で自己決定してくるのも工夫ですね。
ウ)複数メンバーで考えを持てる学習集団
課題について自分の考えを容易に持てない時には、複数で考えることも工夫です。ただし、「教えて」ではなく「どう考えているの」という心構えが必要です。
<どうして、題名を「やまなし」にしたのだろうか?>
P1 私は、やまなしが落ちる時の「トブン」から優しさを感じる。
P2 私は、まだ考えがまとまらないけれど、かわせみの時は、ぶるぶるふるえていたけれど、やまなしの時はついて行った。そこが、違うと思う。
P3 考えはうかばないけど、かわせみの生き方とやまなしの生き方では、やまなしの生き方が賢治さんは好きだったのかな。
6年「作品の世界を深く味わおう」では、作者の考えや生き方と重ねて作品の世界を深く読むことが求められている。2枚の幻灯を比較することによって、筆者の世界を読み取らせたければ、教材との出会いでの感想は、A・Bのどちらの方がねらいに到達しそうですか?
A<読んで感想を書こう>
B<読んで、生き方や考え方について、思ったことを書こう>
<どうして、題名を「やまなし」にしたのだろうか?>
Aの場合、やまなしが好きだったから。
Bの場合、補助資料「イーハトーブの夢」から、賢治の生き方や考え方と、やまなしをつなげて考える子が多くなる。
複数メンバーで考えを持つ場を自己決定の場にあっても、意図的な教師の発問や明確な課題・考える視点の整理など、教師のかかわりが重要となる。
- (2)一人一人に存在感を与える
(自己有用感を与える・自尊感情を高めるなど、様々な言い方がある)
- 授業中は個人差が多く表れます。特に、国語の授業となると、「好き・嫌い」が表情に出てしまい、学習姿勢にも影響を及ぼします。
消極的になりがちな学習の時間だからこそ、子ども達一人一人に存在感を教師が意図的に計画的に与えることが大切です。そのために、教師は次のような配慮が必要です。
①「見る」→「観る」
・子ども達の変化を「知る→把握する」ためには、「見る」では足りません。観察する必要性があります。小さな変化でも見逃さず、成長した場合は「賞賛の言葉」、失敗した場合は「慰めや激励の言葉」を瞬時にかけなければ教育効果は望めませんね。
②「聞く」→「聴く」
・「聞く」という漢字は「門から耳」を使う。「聴く」という漢字は「耳と心と目」をプラス「+」して聴くのです。つまり、適当に聞くのではなく、全身全霊を使う意味を表しているのが、「聴く」なのです。
「聴く」ことは、「人間を大切にする」ことになります。言語能力がまだ育っていない子ども達の発言は、未熟で不完全です。ですから、教師は「〇〇さんは何を言いたいのだろう。」という心で聴かなければなりません。そして、「〇〇さんは、~~なことを言いたかったの」と確かめる(時には解説する)かかわりが必要です。このかかわりが子ども達の存在を確かにすることになります。
T1 P1さんは、「トブン」という音の響きから、賢治さんの優しい生き方を感じたのだね。なるほど
T2 P2さんは、「カニの兄弟の行動」を比較して、題を「やまなし」にした理由を考えようとしているんだね。流石
T3 P3さんは、「かわせみとやまなしの生き方」を比較して、考えようとしているんだね。楽しみ
「なるほど」「流石」「深い」「楽しみ」「興味深い」などの感想の言葉も加わると、一層存在感を与えることになります。
しかし、「何を言っているのか、分からない。」とか、「はっきりさせてから発言して」などの声かけが、学級全体に及ぼす影響を考えてみてください。子ども達は、未熟だから学習するのです。不完全だから国語の学習をするのです。すらすらしゃべることができたら、国語の勉強は不要ですね。教師の一言が存在ばかりではなく、学習意欲まで奪い取ってしまうことを心しておいてください。
③「個」→「全体」
・一人一人を把握することは重要ですが、授業中は学級全体を把握してほしいのです。姿勢が良くない子、集中力のない子、油断する子など配慮を要する子どもばかりに気をとられていたのでは、学級に存在する子ども達一人一人の小さな変化に気づけません。
遠足では、人数点検し全員を把握します。授業でも参加状況を点検し全員参加の学習になるよう全体を把握してください。
T1 (発言者は2~3名だったのに) みんなの意見だと。と言う教師。
T2 皆で読むよ。と言ったら、みんなになっているかを把握する教師。
あなたは、今後、どちらの教師をめざしますか?
④「配慮」→「癖」
・存在感を与える1つとして「拍手を贈る(送る→贈る)」方法があります。「いい声に・いい姿勢に・いい表情に・素敵なノートに・食べ物を残さなかったことに・友達の失敗を責めなかったことに・シャツを出していないことに・ズッパしていないことに・怪我がなかったことに・仲良く遊べたことに・挨拶をしたことに・欠席がいなかったことに」など、様子・出来事・心構えなど、全てをプラスにとらえて「拍手→贈る」ことが、存在感を与えることになります。
・「みんなの意見だと…」と言うためには、発言者が2~3名であっても、「板書してある意見の同じ所にネームプレートを貼る」、「〇〇さんと同じ意見の人は手を挙げて、と人数を確かめ板書する」などのかかわりが教育効果を上げます。
拍手を贈ったり、挙手させたり、そんな配慮が「無意識に出てしまう習慣になってしまう」癖にまでならないと、本物とは言えません。瞬時に対応できてこそ、真に存在感を与えることができるのです。
⑤継続は力なり!
・以前勤務していた中央小で公開研究発表会を開催する時、当時千葉大学教授でありました「坂本 昇一氏」に講評をお願いしたことがありました。前夜、金沢のお料理を楽しんでもらった席で、坂本教授から、次のような言葉をかけてもらいました。
「生徒指導を機能させるためには、生徒指導が身についていなければなりません。それを身につけることが大切です。…略…。あなたにも身についていますね。」
その当時は、社交辞令だと思っていました。しかし、坂本先生の意味する「生徒指導が身についている」がだんだん分かってきました。分かった頃には学校現場を去る年になっていました。
「一人一人の意見を聴き・把握し、全体を観て言葉をかけ、拍手を贈ったり、心を揺さぶる言葉を言ったり、そんな生徒指導を身につけるためには、日々努力し継続する。」
それしか方法はないのです。産まれた赤ちゃんがすぐに鼻呼吸ができないのと同じように、努力や練習なしに最初からできる人は皆無なのです。だからこそ、教師には研修が必要なのです。研修とは「研究と修養」です。
- 研修とは「研究」と「修養」の両方を意味する
- 少し横道に逸れますが、辞典で「研修とは、職務上必要とされる知識や技能を高めるために、ある期間特別に勉強や実習をすること。また、そのために行われる講習」と言う意味です。教育公務員特例法の「第4章(研修) 第21条 教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」と規定されています。
①研究→物事を詳しく調べたり、深く考えたりして、事実や真理など
を明らかにする。
②修養→知識を高め品性を磨き、自己の人格形成につとめる。
この①と②の両方が研修です。最近、②がなおざりになっているように感じます。最近の研修は、マニュアル研修やKNOW-HOW研修が多くなっているように感じます。ですけれど、教師として必要なのは「修養研修」なのではないでしょうか。私はその必要性を訴えたいです。
- (3)共感的関係で学習を展開する
- 「教える人と学ぶ人」の関係ではなく、「共に学ぶ・共に歩む・共に進む」関係を成立させながら学習展開することが求められます。
中学校教師の方が授業の腕前が上がると思います。なぜならば、同じ学習を繰り返すことができるからです。学年3クラスだとすれば、本時を3回できるのです。子ども達の反応を知ることによって、余裕が生まれます。余裕は工夫を生み出す原動力となります。
6年生「やまなし」の学習で、本時の課題では子ども達の反応が弱いと思ったとしても、また、6年生を受け持つ機会にいつ巡り会えるか分かりません。子ども達の生きた反応を知ることが、教師の経験値を上げます。教師は子どもから学ぶことが多いです。つまり、子どもは教師の先生と言うべき存在です。
<子どもと先生と、どっちが授業の主役?>と問えば、答えは「子どもが主役」となります。教育で重要なことは、「子どもを主役にするために、教師は素晴らしい脇役にならなければならない」ことです。この主役と脇役が授業の中で、「共に学ぶ・共に歩む・共に進む」ための1つとして、「求める授業像」を設定する方法があります。
普通、「学級目標」を決めて教室に掲げるのですが、学校生活で一番長い時間である「学習=授業」の目標を決めて掲げるのです。
- (3)-2 求める授業像
- ①設定までの取り組み
1年生の入学当初は難しいかもしれませんが、次のような教師の働きかけからスタートします。
<新しいメンバーで、どんな授業がしたいと思いますか?>
<現在の授業で、変えたらいいことはありますか?>
<どんな授業だと、学校へ来るのが楽しみになるかな?>
<これまで最低の授業って、どんなのだった?>
学校は学習をする場所。分からないことが分かるようになる場所。できないことができるようにする場所。知らないことを知る場所。そんなことを子ども達の心に植え付けながら、教師からの一方的な授業像ではなく、学習の主役となる子ども達の意見も取り入れて、共通の目的に向かって日々の授業を展開するために設定するのです。
②設定した後の取り組み
教師も努力しなければならないし、子ども達も努力しなければならないのが、求める授業像です。子ども達と教師の両者共が求める授業像になっていれば、子ども達にプレッシャーをかけても押しつけになるだけです。
T1 「頑張る授業」になっているのかな。先生と数名が頑張っている
ように感じるけれど。
T2 「楽しい授業」になるためには、先生が説明すればいいの。そ
れとも、みんなの考えを出し合って進めれば良いの。
T3 「分かる授業」にするためには、分かるか分からないかを自分が 判断するために、考えなければならないね。
- 求める授業像が「抽象言語(生き生き授業)」であれば、具体的な姿「努力目標(どうすれば、生き生き授業な近づくか)」の明確化が必要です。具体的な姿「宿題を忘れない」を設定したとしても、「どんな努力や取り組みをしたら、宿題を忘れなくなるか」についても明確にすることが、子ども一人一人の成長につながります。
③成長した実感・努力した実感を味わわせる
求める授業像の修正や変更は、節目(学期など)でおこなえるゆとりが必要です。お別れする3月までに達成すればよいので、ふり返りや反省を基に成長を実感させなければなりません。
それが、子ども達を主役に育てる脇役としての教師のかかわり・配慮なのです。誉められた経験が人を誉めるようになる。認められた体験が人を認められるようになる。スタートは、自分の体験・経験です。ですから、教師から「成長の姿」や「努力の姿」を紹介し、感動し拍手を贈ることからスタートしなければ、3月までに「求める授業像」は単なる掲示物になってしまいます。
脇役である教師は、求める授業像を日々意識し、「〇〇さんのこんな姿は、求める授業像に近いね。」や「〇〇さんのそのうなづきこそ求める授業像の実現につながるね。」など、具体的な姿を認め・励まし・勇気づけることが求められます。
以前、出会った転校生Aさんは1週間に1回行う漢字テストで練習をひとつもしない子でした。ある日、その子が「0点ではなく、10点」とった時、私は誉めました。
「水泳で考えてみましょう。怖くて顔を水つけられなかった子どもがつ けられるようになったことと、25m泳げた子が50m泳げたことと、ど ちらが頑張ったと君たちは思いますか。」
とね。「どちらも頑張った。」「50mだよ。」「顔をつける方だよ。」と様々な意見が出ましたが、
「先生は水泳のプロとして、水の恐怖を克服する方が、大変な努力 がいることだと思う。」
と考えを述べ、転校生の「0点から10点」を誉めました。それ以降、転校生はだんだん練習するようになり、完璧「100点」を採るまでの努力を惜しまないようになりました。
他人と比較するのではなく、以前の自分と今の自分を比較することが成長を実感させられるのです。
道徳教育の先進校で心振るわせる言葉に出会いました。
・昨日の自分より今日の自分。今日の自分より明日の自分。
・江戸仕草。「所作、立ち居振る舞い。」
教師生活が長い私でしたが、教育は奥深く、そして、追求する価値のある職業だと、県外出張へ行く度に感じさせられました。
- (3)-3 「さん・さん」? 「さん・くん」? 「あだな・呼び捨て」?
- 生徒指導を学んだのはK市立T小学校でした。その後、K市立Y小学校へ勤務して「さん・さん」を学びました。「さん・さん」とは、男女関係なく、一人の人間として「〇〇さん」と呼ぶのです。
以前の私は「ちゃんづけ・あだな・呼び捨て」から「さん・くん」に成長したばかりでしたので最初は抵抗がありました。ですが、「未熟であっても、不完全であっても、人格を持った一人の人間である」子どもに対して「〇〇さん」と呼ぶことが、これから教師として生きる自分にとって最適であると判断し、それ以降「さん」と言い続けました。
教師という職業は、大変です。大変だからこそ、教師自身が「自分で考えて・自分で決めて・自分で実行できる力を持ってほしい」と願っています。子ども達の実態(雰囲気・実力等)を無視した指導なら、ロボットで教育は実施されても良いです。
血の通った教師でなければならない理由の1つには、子ども達の実態・実情を認識し、その上で、最適な指導方法を考案・展開できるからです。
頑張ってください。未来に日本を背負う子ども達のために。(やっぱり強調するときの表現は倒置法が最適です)
「教師」と言う崇高な職業を選んだ貴方だからこそ、このオフィス「和み」で教育観や人生観を再考し、今後益々教師力を向上させてください。
応援しています。
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